1929年10月24日、アメリカ・ニューヨーク市のウォール街は、異常な空気につつまれていた。それは、ニューヨーク株式取引所で、取引開始後、1時間後ぐらいのあいだに、株式の売り注文が、ジリジリおしよせ、前例のないおどろくべきはげしさで株式の価格が下がりはじめたからである。午前11時には、全アメリカの株式売買の店から、売り注文がおしよせ、恐ろしいパニック状態となった。取引は、午後3時に終了したが、その日の株式売買高は、売りを中心に1289万株というアメリカでの新記録をつくった。これが、ほとんど全世界の資本主義国家を巻きこんだ世界大恐慌のはじまりであった。その後も株価は下落し続け「暗黒の木曜日」と呼ばれる24日からわずか2、3週間に300億ドルが空中に吹き飛ばされてしまった。この金額は、アメリカが第1次世界大戦に消費した金額に相当した。おそるべき大暴落であった。はじめは誰も、この経済の急変を信じられなかった。
もろくも崩れた「永遠の繁栄」 世界恐慌
アメリカは第1次世界大戦中、大量の軍需品を主にイギリス・フランスに供給して巨大な利益をあげ、戦後は世界一の資本主義国になっており、自動車・化学・電気工業などの新産業を中心にアメリカ経済は発展を続け「永遠の繁栄」を誇っていた。しかし好景気の底では、静かに、しかし重大な病気が進行していた。1920年代後半に入るとヨーロッパ諸国の経済が回復し、また後進国における工業化の進展、植民地・自治領内の民族産業の発展、ソ連経済の復興などにより、世界的な生産過剰状態が生まれており、アメリカでも見せかけの好景気のわりには国民の消費が伸びず、倉庫には次第に売れる見込みのない商品がたまり始めていた。アメリカ経済は、全体として、氷河期に自分の巨体をもてあます恐竜のように大きくなりすぎていた。そしてこの巨体が、ある日突然倒れたのである。
最悪の事態
5000もの銀行がドアを閉めた。ある小都市では、25年間ためつづけた963ドルを失った老夫人が精神病院につれていかれた。失業者は1930年に400万人に達し、1932年に1250万、ピークには1600万人を数えた。株のセールスマンは今では街頭でリンゴを売る身となった。事務員はペンをブラシにもちかえて、オフィス街で靴磨きで暮らしをたてようとした。失業し、住居を追われた者は浮浪罪で捕まることを待ち望んでいた。豚箱に入れば寒さと飢えをしのぐことができるからだった。10万人をこえるアメリカ人労働者が、新聞に出たソ連の求人に応募した。農村では作っても売れない綿花を肥料代わりに畑の土に埋め、牛乳を川に流し、数千頭の羊が殺され、谷に捨てられた。現金収入を失った農民は土地・肥料・機械などの買い入れのために借りた金の利子が払えず、税金も払えず、差し押さえや競売を受けて、土地を失った。1933年には最悪の事態におちいり、アメリカの工業生産は、約30%に縮小した。失業をまぬがれた労働者も収入は激減し、オハイオ州では1929年の1449ドルから1932年の960ドルへと年々下がりつづけた。アメリカの大恐慌は、アメリカが張りめぐらした支配網を通じてヨーロッパ・アジアへ波及し、1930年代の世界を再び動乱の時代へと追いこむことになった。